適切なコーポレートガバナンス・コード導入で企業の透明性向上を!

以前、スチュワードシップ・コードについてブログで触れましたが、今回は、コーポレートガバナンス(企業統治)改善への指針とされるコーポレートガバナンス・コードについて述べてみます。

日本でコーポレートガバナンス・コードが導入されるということは、他の先進国で実施される場合よりもインパクトが大きいですね。というのは、日本の経営者報酬は他国よりもずっと安いですし、自社株価に連動したボーナスというものもまず聞かないので、経営陣と投資家の利害を一致させることがそもそも難しい国ですから。

また日本で暮らしてみると、コーポレートガバナンスやスチュワードシップに限らず、細かくお手本を示すということが、速効性の高い手口じゃないかな、と感じることもあります。

ある程度まともな行動規範が示されれば、僕の経験上、日本の経営陣は右にならうと思います。スチュワードシップ・コードの効果を実感した投資家が、コーポレートガバナンス・コードについても企業に追従を促せば、経営陣は独立取締役に見守られながら株主のことを気に留めるようになることと思います。その結果として、ゆっくりだけど、しっかりとした足取りで株主利益の増加が近づいてくるでしょう。そういうわけで、日本版コーポレートガバナンス・コードにどの程度重要なことが盛り込まれるか、というのは気になるポイントですね。

8月8日の日本経済新聞によると、日本のコーポレートガバナンス・コードは2004年に改定発表された「OECDコーポレート・ガバナンス原則」に準拠して作成されるようです。ただ、僕は「OECDの原則」は具体性に欠けていると思います。たとえ特に希釈することなく内容を準拠するとしても脆弱な中身になってしまい、日本の自己変革能力について新たな失望感を生じさせないかと懸念します。議論の的になるのは、独立取締役の複数名導入と株式持ち合いの制限方法でしょうね。とりわけ、独立取締役の問題は厄介かな。大企業の経営陣は、経団連に率いられた強力な圧力団体として組織化されているので、自分たちの支配構造を脅かすような変革には抵抗してくるでしょうからね。

とは言え、コーポレートガバナンスについての適切な指針設定が、企業の透明性を向上させ、日本企業の行動規範を改善させうると僕は信じています。また機会があれば、この理由について掘り下げてみますね。

原発の「本当のコスト」を考えよう

最近の原発再稼働の話題で気になることがあります。独立性のある原子力再稼働委員会を作り、なんとなく再稼働に向けて準備する一方で、本当に日本に原発がいるのかいらないのかという基本的な議論が、メディアからも政府のアジェンダからも消えてしまいました。

日本は昔からエネルギーを輸入しなくてはならない国で、原子力技術もそこそこ進んでいるので、まあ必要不可欠だろう、という議論は、経済人として理解できます。

じゃあなぜブログに書きたくなったのかというと、福島原発関連の、特に最終処分場について「こんなやり方あるんですか?」って思ったのです。結局ある自治体に押し付けて市民はみんな反対しているのに強行するというやり方です。こういうことをする一方で、長期的な保管方法や、これが原因で住民が病気になる可能性など、なぜ計算していないんでしょうか。または、計算していたとしても公表できないんでしょうかね。

例えば一度泥棒に入られて、そこではじめて自宅にセキュリティシステムを入れると、みんな笑います。でも一度入られたらもう泥棒は来ない、ということはなく、二度目も三度目も確率は変わらないんです。同じように今回も福島で一度事故が起きているからもう大丈夫、ということはありません。確率はちっとも変わっていないんですよ。

先日テレビで見たのですが、フィンランドではフランスのアレバ社の原発を建設していて、工期が遅れ、コストが10倍になっているとか。建設地の地盤が非常に安定しているにもかかわらず、安全性確保のため工期が遅れ、コストが爆発的に増えているそうです。

それに対して小泉氏が言っている再生可能エネルギーというのも、これまた高いんですよ。メタンハイドレートも水素も全部高い。ですが、今後原子力発電を推進しても、再生可能エネルギーを選択しても、「これまで原子力に費やしてきたコストは今となっては取り返せるものではない」という前提で今後の選択をしっかりと比較検討するべきでしょう。

原子力再稼働委員会がここまでやれば大丈夫だよねって決めたから事故は起きないだろう、というのはごまかしで、「本当の原発のコスト」を再生可能エネルギーと比較するべきじゃないかと思います。

それともうひとつ、日本が再生可能エネルギーのパイオニアになる、という道があります。そうなると技術の輸出なども可能ですから、確率は低いとしてもシナリオ分析くらいはすべきじゃないかと思います。そういう試算をして、10年20年ではなく、50年後の姿を考えるべきでしょう。

ファッションセンスを磨いてデフレ脱却へ!

先日友人とランチをした時に、「日本人はいいものを着なくなった」という話になりました。最近は、洋服が使い捨てという文化になってしまっています。女性でも男性でも質がまあまあでも安い、というものを選ぶという流れ。そこからまさにデフレを感じます。結局、「この安価で出来る最高のもの」を提供できる企業が勝ちます。しまむらやファーストリテイリングは代表的な例です。

我が家は、まだ着られるものを捨てるのがなんとなく苦手な家族です。そうすると、意外と溜まります。ここは自分もかなりデフレ型の消費者だと反省しています。これで、着られるのに着ないという現象が起きてしまいます。どういうことでしょうか?

自分が持っている洋服の中は、高いものも少しありますが、やっぱりユニクロさんなどで買い求めたものもかなりあります。やっぱり、(当たり前ですが)安価なものと高価なものを比較してみると、安価なものはすぐに微妙にぼろくなったり、(安っぽく)色落ちしたりしますね。逆に、高価なものは多少古くても、ちゃんとしたモノのままです。

Value For Moneyだったはずだけど、なんかだめ・・・というのはユニクロだけではないです。ファストファッションの先駆者であるGAP系列のバナナ・リパブリックあたりでも、一回二回洗濯しますと、近所(あの渋いと言われる下町・・・)には行けるけれど、ナントカヒルズやオシャレ系レストランに来ていくのはちょっと微妙!?という気がします。ダメというわけでもないですが、なんかちょっと違いますね。

「結局のところ価値とは何か」ということを考えてしまいます。もともと日本は着物を何世代にもわたって使い、着たあとも綺麗にたたんで箱に入れて保管する、という伝統がありましたが、今は使い捨てのファッション、ファストファッションが主流です。こういうのは5メートル先からでも安物だということがわかります。コーディネーションとか流行っているスタイルとか、理解はできるのですが、結局、究極的には美しくない。

「ずっと使えるなら高くてもいい」という考え方が世の中に増えていかなくてはならないし、こんな考え方がデフレ脱却の新しい顔になればいいな、と思います。第一歩として、ファストファッションの様な安価なものだけでなく、目的と場面によって高価なものも取り入れてみませんか?日本は多分変われるし、変わるんじゃないか、時代の流れが変化するんじゃないかな、と最近思い始めたのですが、どうでしょうか?

余談ですが、例の同じ友人はクールビズに対してかなりネガティブ。いや、激怒しています。サラリーマンの皆さんは結局、スーツ用の安っぽい白いシャツをネクタイ無しで着ているのが「カッコ悪すぎる!」と。Coolは良いけど、Cool(涼しい)かどうか分からないけど、きっとCool(カッコいい)ではありません。カジュアルで行くなら、米国流のカーキ(チノパンツ)とポロシャツのビジネスカジュアルで行くべきだし、イギリス流ならやっぱりスーツか、少なくともノーネクタイを前提にデザインされたかっこいいシャツとかにすべきでしょう。

東京も「かっこいい街」になろうとしている中で、それでもファッションの文化っていうのは原宿から離れれば離れるほど遅れているな、というのが僕の気になるところです。